□投稿者/ aidac skrow 一般人(1回)-(2006/03/02(Thu) 18:22:07)
| 44歳の父親です。娘は5歳。結婚後10年で授かった子供で、私が自営業ということである程度時間が自由になるため、生まれた時から概ね3〜4割程度(時間的にも労力的にも)子育てを任せてもらっています。 愛しているけどドつきたくなる、 そんな気持ちは良く判ります。はっきり言って、言い訳程度ではなくて、本格的に 子育てをしている人なら誰でも理性も思考もない動物としか思えない振る舞いに、 耐えるかキレるかするのが当然だと思います。平然としていられる人は、散々苦労を 経験して分厚いハートになっているか、さもなければ本気で子育てをしていないのではないかとさえ思います。逆に言えば、子育てに耐えている人、切れる人は 必死で子育てという孤独な戦場で時に、或いはいつも、援軍を待ちわびながら 一人ぼっちでのた打ち回りながら戦っている、「正に今、必死で生きている」人間の姿であると思います。
僕自身は特に親から虐待をされた(と思い込んでいたことはあるけれど)ことは ないにもかかわらず、昔風の教育(甘えるんじゃない、抱き癖をつけるな、我慢させろ、意見を言うな・・・まあ、昔はどこの家でもそうでしたが)についぞ納得なり 満足なりが得られることがなく、「母親に相手にしてもらえない、正面から話もちゃんと聞いてもらえない」という鬱屈した想いが蓄積し、成長してからは随分と 母親を追い詰めて詰り、責め続けるという醜い振る舞いから抜け出すことが出来ませんでした。 言うのも恥ずかしい年齢になっても、母親に対する爆発的な被害者意識というか、感情の爆発を制御することが出来ず、酷い自己嫌悪で苦しんだものです。血の叫びの気持ちに対して、したり顔で薄っぺらな説教をたれる人間に 殺意を抱いたことも一度や二度ではありません。 それでいて、時代的に無理もないこと、母親の愛情は十分に理解していること、自分の心の中にも愛憎が常に同居しており、しかし絶対に母親を変えることは出来ないという、無限地獄のような、 際限ないやりきれなさから常に母親に対して喧嘩を売るような姿勢を変えることは 長いこと出来ませんでした。
長々と駄文を書きましたが、私が言いたいのは多くの親が我が子に、子供は親に 愛憎取り混ぜての強い強い執着心を持っていること自体はありふれたことだが、 好きだから、愛しているから、というポジティブな「考え」では、恐らく解決する ことは無いだろう、ということが一点です。 「何でこの子は親を困らせるの!」という親の苦痛、そして子供が物心ついてから ずっと感じる「何で自分の親は自分を理解しようとしないのか!」という、 向かい合わせでセットになっている欲求不満は、そのままではまったく別次元の 苛立ちなので、いつまで経っても噛み合わないばかりか、相当大人になるまで (或いは、何らかの形で、その子の一生)一種のトラウマとして人生と親子関係に 影響を及ぼし続けるという事実です。
お互いに「自分を理解しろ」といい続けているわけだし、「あなたの言動は自分にとっては苦痛なのだ」という意思表示を互いに続けているばかりだからです。 判っちゃいるけど、辞められない。 だから、相手を説得したり、強制したり、 納得させようとしたり、それらすべての言動は相手にとって苦痛に感じている限り 自発的に従うことはありえない、ということです。 これに対して「しつけなんだからビシッとやるのが当たり前だ」と上滑りなことをいう人に限って、子育てを 配偶者や祖父母任せにしていたり、下手をすると子供がいなかったり、場合によっては 結婚さえしていなかったりするケースが非常に多いように感じます。
二つ目は、今現在自分でやって成功していることについて、です。
4歳からピアノを習わせていますが、年端もいかない幼児です。まともに言うことなど 聞きはしません。そんな小さなうちから親の考えを押し付けるのはエゴだ、などと したり顔で言う人間を見るたびにハリセンで後頭部を引っぱたいてやりたくなりますが、 親がまるっきり放置しても子供の肉体は育つでしょうが、人格は放って置けば スクスクと育つことは恐らくありません。ここはジャングルでもなければ、我々は 狩猟と危険回避を教われば生きていける野生動物でもないからです。 凄まじい歪んだ情報社会の中で、常に「価値ある人間」と「その他大勢」に自分を 或いは他人を分類し続けあがき続けなければならないめちゃくちゃな国、21世紀 日本という環境に育つのですから。 人の心など、容易くぼろぼろにもなれば、 他人を意欲的にボロボロにしたがる恐るべきエゴも容易く育ちます。ヒステリーです。
さて、また長くなりましたが、僕が娘と向かい合ってお互いに愛し合いながらも 叱り叱られ、言うことを聞かず、甘えて、駄々をこねて、色んな話し方、演出、 その他諸々の試行錯誤の末に、現時点でずば抜けて一番効果的なのが「抱っこで 釣る」という原始的でオーソドックスな方法です。 「何々をしてくれたら」 「何々をもう一回やってくれたら」飴(抱っこ、添い寝等のスキンシップ)を あげるよ、というエサで釣る方法です。 おもちゃなどのモノと違い、何度でも 欲しがりますし、お金も掛かりませんが、体は疲れます。少なくとも心が疲れ果てて 子供を憎むよりは腰が痛いほうがかなりマシです。
ちなみに、よく「飴と鞭」と言いますが「やらなきゃこれこれだぞ」とか 「できなきゃこんな目にあうぞ」という「鞭」は殆ど効果が無いばかりかかなり 逆効果で、子供から見ると「思い通りにしないと性格が逆上する。信用できない。」 という人間に対する不信感の基礎を形成しがちです。取り戻すのに数倍の抱っこが 必要になります。 どの位必要かというと、その時点で子供がせがむ限り、満足 していない、ということになります。
勿論、色々やらなきゃならないことだらけの中で、そんなに子供に構っている暇も 中々無いのが普通ですが、成長してから親を冷たく無視したり、何を考えているか さっぱり判らない不気味な存在になるくらいなら、洗濯物を減らすために二度も三度も 服を洗わなかろうが、子育てをしない夫にだらしない妻だと詰られようが、家事の多くは 実際、そんなに重要極まりないことは余りありません。僕も掃除洗濯等の家事も それなりに妻と一緒に(或いは分担して)やりますが、溜まっている家事を一気に やってしまうことは子育てに悩むよりはずっと気楽です。
鞭はめったに使わず、人に迷惑をかけることをした場合にキツク叱っています。 普段甘い親が、顔色を変えてたまに真剣に叱るから(決して頭部は叩きません。 頭部、特に顔を叩かれるのは尤も根源的な侮辱、暴力だからです。余程のことが 無い限り多用することは問題だと思います。親自身が、自分に鉄のように厳しい ストイックで無口な頑固親父なら別ですが・・・)
「叱る」ということは子供にとって「感電」とか「やけど」と同義語の「うわっ ビックリ!怖かった…」という、頭ではなくて体が覚えるべきことだと思うから です。要は、「これは怖いから、しないようにしよう」と動物的に覚えてくれれば 良いことで、それが何故なのか、などということは それから随分成長して、 暇なときに自問自答すればよいことだからです。
スキンシップを得よう、愛してもらおう、認めてもらおう、褒めてもらおう。 そうすればもっと気持ちよくなれる。そのように体が覚えた子供は、大人の目から 見ても、凄いやる気や吸収力、集中力を見せたりするものです。
旨くいかなければ悪循環。旨くいけば好循環。一日たりとも休むことなく発達して いくわが子の心に、腰がボロボロになるまで抱っこをし、幼い会話に付き合い、 散らかしっぱなしの掃除がおざなりの部屋に妻に小言を言われながら、それでも 人間としてしちゃならないこと、礼儀作法、思いやりの無さ。それらをしつける 時だけ、叱り飛ばし、或いはされた側の悲しさ、悔しさを思わせる。 それらもすべて、愛情をいつもたらふく食べているから生まれる心の余裕だと、 今現在は信じて娘を育てています。 多少なりとも参考になれば幸いです。
■No532に返信(ミッフィーさんの記事) > 子供は1歳2歳の年子です。 > このごろ下の子にも手がかかるようになり、毎日のようにイライラしています。 > そのイライラが直接子供に向いてしまっていて、 > 冷たくしたり、ちょっとしたことで怒鳴ったりたたいたり。。。 > なんかもう、自分で自分が抑えられなくて、 > 落ち込んだり、怒鳴ったり。 > 情けないです。 > 上の男の子は私が近くにいくと、反射的に手で自分の頭をかばうようになってしまい、それを見て「私は何やってるんだ?」って思うと同時に、 > その姿にまたイライラしてしまうんです。 > 何かをきっかけにして、どうにか今の最悪な親子関係から抜け出したく、 > ここに掲載してしまいました。 > 本当に誰でもいいので、話を聞いてください。
|
|